論文を書くことの汎用性-前編-

このブログを書いている今、かずにすた は広島へと向かう高速バスの車内にいます。今日が大学関係最後の行事。実質的に学生生活の終わりを意味する。5年間、広島にいたのは3年間だったが、全く後悔のない、素晴らしき輝いた学生生活だったと感じる。

 

 

この節目が来ると過去を振り返りたくなるものだが、昨年以下の記事で学生生活については漠然と振り返った。

 

【新大学1年〜3年生に】大学生活3年間を振り返る。 - かずにすたのキロク

 

なので、今回は凄く専門的な具体性の高い「思い出」について振り返りたいと思う。そしてこの「思い出」は、この1年僕が経験したこととリンクするものである。その「思い出」とは、卒業論文である。

 

 

さあ、ここで一気に読者層にフィルターがかけられてしまったかなと思う…けども、笑。書きたいことは、

 

 

卒業論文=ただ時間がかかる役に立たないもの

 

 

という命題を否定することだ。こうなると、興味を持って読んでくれる人が何人か現れてくれるだろう。大学を卒業するために、ほとんどの人に最後に課せられる課題が、この卒業論文と思われる。さて、卒業論文に対して皆さんはどのような思いを浮かべられるだろう。最も、上に書いたようなイメージをもつ人が少なくないと僕は思っている。しかし、このイメージは非常に大きな勘違いをしてはいないだろうか卒業論文とはほんとに意味のないものなのか。そもそも意味のないとは?役に立つ、立たないとは?時間の無駄とは?

 

結論から述べると、「確かに卒業論文で取り扱った内容はこれから役に立たないことが多いかもしれない故に、意味をなさないかもしれない。しかし、その論文を書くプロセス(方法)を学び取ることは、大いに意味がある」というよが僕の考えだ。それに加えて、「大学に通う意味=卒論をやることでしかない」とまで言い切ってみたい。さて、この結論について今からロジカルに述べていきたい。これを持って、最高の学術機関である大学を卒業したと宣言することとする。

 

 

「方法」で8割決まる恐ろしさ

 

 

僕が卒業論文で書いたテーマはこちらだ。

 

 

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テーマが

 

 

20世紀末スペインにおける教育改革に関する考察-急激な民主化に伴う教育システムの変化に着目して-

 

 

である。概要は、添付写真を参考に読んで欲しい。簡潔にいうと、「スペインの教育の歴史の移り変わりを、紐解こうとした」というのが旨である。

 

 

さて、この分かりにくい、こねくりまわされた何の役に立つかも分からないような研究テーマに、どう取り組んでいくか。そもそも、何を明らかにすべきなのか?そう、論文を書く前のこの時点で、すでに卒論の醍醐味は始まっていると言える。即ち、「どういう方法を選んで研究を進めるのか」という視点だ。この視点で見たときに、見た目だけで価値のあるように見える理系の研究だけではなく、歴史・教育・文学などのリベラルな分野でも、高い方を帯びてくると僕は思う。さて、どういうことなのか。

 

 

例えば、僕の研究テーマを進めていくにはまず「スペインの教育史がすでに研究されたものであるかどうか」を確認する必要があった。これについてある程度調べたところ、英語・スペイン語文献では蓄積があることが判明した。しかし、日本語では一切見当たらないということが判明した。それに加えて、先行研究を批判的に読み進めると、僕が焦点を当てた20世紀末の教育の批判に妥当性があるとは言えないものがあった。ここに、リサーチギャップ(研究を進めていける点)を見つけた。その後、どういう方法をとったか。

 

 

ここからは地道な作業である。#Spain #education #dictatorship(独裁) #franco(独裁者) と語句検索を繰り返し、資料を見つける。この段階で、自分の研究の方向が大きく決まっていくのは間違いない。何故なら、自分の認知した領域からのみしか、人間は思想を広げられない生き物だからだ。それ故に、起業家やゲームチェンジャーの価値は高い。ないものから思想を広げ、それを実行に移しシステムをつくりだしているからだ。

 

 

研究の場合は、ここで自分のリサーチギャップを担保してくれそうな資料を念入りに探す。僕は、ここでいくつかの資料に巡り合うことができた。ここから、20世紀末とは一括りに言っても、どうやらこの時代全体で教育の意味合いが全く同じではない感じがしてきた

 

 

それ故に、僕の卒論で最終的に主張した部分は、「教育と政治の民主化は完全にリンクするのではなく、独裁政治が行われていた頃から教育の改革は着々と進んでいた」という歴史である。

 

 

興味深いのが、この結論に至ったのは卒論の執筆〆切の1ヶ月ほど前で、最初から想定していたものではなかったということだ。自分が回収した先行研究を読み進め、自分の中でさまざまな仮説を立て、このような結論に落ち着いた。つまり、先行研究によるところが大きい。僕が学部三年生の時に、とあるK教授がこのようなことを言っていた。

 

 

「研究というものはですね、その90〜95%が先行研究の批判から成るものであって、残りの5〜10%に自分のオリジナリティを加えて完成するものなのです。ただ、この5〜10%にものすごく価値があります。そしてこれは、先行研究を良く読み、考察し、思考を深めなければ到達できないものなのです」※少しアレンジあるかも

 

 

僕は、卒論を書きながら結論に至った時、この言葉を鮮明に思いだした。なるほど、あのK教授が言っていたのはこういう感覚のことだったのか。気づけば、僕はこの卒業論文を書くために、英語・スペイン語・日本語文献を軽く見積もって25〜30種類は1年をかけて読んでいた。その甲斐あって、自分のオリジナリティといえる結論を、論理性を保ったまま述べることができたのだろうと思う。

 

 

論文を書くためには、先行研究を洗いそしてその中から適切な資料を選び取る。僕ももちろん、25〜30もの資料を全て使ったわけではない。実際に使用したのは、10〜15ほどだ。それ以外はただ読んだだけ。ただ、それによって「使える資料」を選び取れた。一見無駄に見える作業だったが、全くそうではない。無駄と価値は意外と紙一重かもしれない

 

 

そして、適切な資料を選び取れたことで、スムーズに結論まで持っていくことができた。実感として、資料選びとった時点で、8割研究が決まっていたと言っても過言ではない。それほど、このプロセス(方法)は大事なのだ。

 

 

引用の技術

 

 

卒業論文の中で、方法が大事であることは上記である程度伝えられたかと思う。ここからは、「なぜ卒業論文に価値があるのか」を主張していくパートに入っていく。

 

 

論文中には、自分の主張の論理性を担保するために、先行研究の引用をする。たとえば、Aを主張したいのであれば、それを担保するBという事実(ファクト)を持ってくるという具合にだ。

 

 

さて、この動き。何かと似てはいないだろうか。そう、仕事である。更に、日常生活にもこの作業はよく見られる。さて、どういうこと?と思った人。以下読み進めてほしい。

 

 

僕は今サッカー事業の運営に携わっているが、日々仕事の効率性を高めることに勤しんでいる。効率性を高めるということは、意味のある/価値のある仕事のみをしていくことであるといえる。さてそれを見分けていくにはどうすればいいだろうか。それは、その仕事自体に意味があるのか、自分自身で検証を行うことが考えられる。

 

 

なぜAという仕事をしているのか。それは、Bというファクトがあるから─────

 

 

この論理構造が破綻していれば、その仕事はする意味をなさない。一方で、ある企画を行いたいとする。実際、来年度4月から関西圏のトップレベルのプレーヤーである小学生・中学生年代の子らを招集し、エリートクリニックという名のプロジェクトを実施する。この実施のために、「何をAとするか、即ち何を達成したいのか。そしてこれを担保するB(ファクト)は何なのか」を考えなければならなかった。

 

 

Aについては、「ホントにトップオブトップの選手でクリニックをするかつ利益の確保」であり、それを担保するBは、「これまでの類似したクリニックの集客率」と、「弊社への顧客からの信頼」であった。4月からスタートであるわけだが、先日のセレクションに定員の倍近くが申し込んでくれたことを考えると、プロジェクトの出発点は悪くはないと思われる。

 

 

さて、「卒業論文には価値がある」という主張にここで戻るとしよう。つまり、「何かを主張したい、そのためにこういう背景があり、こういう根拠がある」ということをやってのけるために、卒業論文は極めてうってつけなトレーニングであると言えよう。今の仕事を始めて約4ヶ月だが、すでにそれを実感しながら取り組んでいる。学術とビジネスは、似通う部分があるんだという衝撃を僕自身も受けたのである

 

 

ただビジネスが面白いのは、論理の妥当性に価値があるわけではないこと「結果を出す」ことに意味があるのだ。ここからはまた別の領域になるので割愛するが、ビジネスで果たしてどこまで論理性が必要になるかどうかは分からない。僕は、「偶発性」が鍵になってくるだろうと思っている。まあこのへんは、まだサラリーマンとして何の価値も社会に与えてない人間の発言になるので、ここでは控えることとする。笑

 

ただこのパートで、卒業論文が有する価値について、主張することができただろうと思う。

 

 

卒業論文=ただ時間がかかる役に立たないもの

 

 

これについては、まだ批判には及ばない。後編にて、更に述べていきたい。

 

 

かずにすた