「サッカー指導者」に思うこと。
本年度の4月から、僕は小学校1年生〜小学校6年生のサッカーコーチとして、アルバイト的に働かせて頂いております。まだまだ未熟なサッカーコーチですが、自分なりに大切にしている価値観はバチっとあります。子どものサッカー技術が向上することは当然の目標です。そのために、子どもを客観的にみて指導するコーチの存在は、必然かと思います。今回は、そのコーチ・指導者について、かずにすたが思うことを書いていきます。それではいきます。
名選手≒名監督
サッカーに詳しい方にも、そうでないという方にもお尋ねしたいこの質問↓
「サッカーのプレーが上手い人(ex.プロサッカー選手、サッカー歴が長い人)=有望な監督になると思いますか?」
さぁ、皆さんどのように考えられたでしょうか。結論から行くと、「十分条件ではあるが必要条件ではない」というのが答えです。言い換えると、サッカーのプレーが上手いからと行って、いい監督・いい指導者・いいコーチになれるとは限らないということです。そう語ってくれたのは、勤め先のスクールの統括ディレクターの方。
特に幼少期・青年期の指導者に絞って考えると、プレー経験はそこまで重要視されないとのこと。それよりも、子どもの人間性の部分に着目した指導を行えるか。
「自分のレベルは客観的に見てどうか」
「何が自分の強み・弱みなのか」
こういったことを幼い子どもたちに考えさせるように働きかけ、同時にサッカーへのモチベーションを高める仕掛けづくりもすることが求められます。
勿論僕が指導者をさせて頂いているスクールは、特殊なサッカースタイルを教えるため、決まったプレーモデルが存在します。それは、ボールを扱う技術だけで習得できるものではありません。やはり、身体だけで理解するのではなく頭を使ってプレーすることが求められます。はたから見て「目立つプレー」も大切です。ところが、指導者が注意して見るべきはそれ以外の「ボールを持っていない時の動き」です。
このように、自分がプレーするときとは違って、指導者は色々な思考を張り巡らせながら、子ども一人一人に対応することが求められます。このように考えると、ただサッカーが上手いだけの人≒良い指導者がイコールではないことが明らかでしょう。
常に「教育者」であれ
先に触れたトピックに繋がります。アカデミーの年齢にある子どもの指導者は、コーチでもあり教育者でもあると僕は思っています。残酷な事実ですが、将来プロサッカー選手になり、更にそこから日の丸を背負う代表選手になる人は数える人しかいません。もはや、目指してなれるものではないかもしれません。何故なら、成長段階で出会う人・自分の身に起きることによって、自分の状況も変わってくるからです。
となった時に、プロになれなかった子にとってこのアカデミー・そして指導者の存在意義は一体何になるのでしょうか。それがまさに、人間性の形成に当たります。よく見落とされがちですが、世界で活躍する名プレーヤーはサッカーも優れていますが、人間性も同じくらい優れています。それが、「謙虚さ」であり「努力」であり、諦めない「野心」でもあります。僕が所属するアカデミーでは、こういった人間性の部分も評価しながら、丁寧な指導にあたります。当アカデミーの指導者は、まさに教育者とも言えるでしょう。
学び続けろ
指導者は、教育者でもある。その指導者に永遠に課せられた課題は、「常に学び続けること」だと思っています。この仕事に関わると、
「あ、あの対応の仕方はまずかったかもな…(汗)」
という瞬間が多々あります。その時に、それを流して次に行くか、しっかり振り返って次に進むか。勿論、前を向いて進んでいくこともとても大切です。ところが、些細に見える自分のわだかまりが、のちのち大きな差となって子どもの成長に表れてくるかもしれません。良い指導者は、決して驕らず、自分が成長段階にあると見定め、謙虚に学び続けることができる人だと僕は思っています。
まとめ
いかがでしたでしょうか。特殊なスクールの指導者である分、一般的なコーチ像とは少しかけ離れた部分があったかもしれません。いずれにしても、「子どもがサッカーを通して、人として生きていく上で大切なことを知る」という目的は変わりません。なぜなら、ほとんどの人が同じ社会、似たコミュニティの中で生きていくことになるのだから。
かずにすた